ガンジス川の支流、ジャムナ川の右岸にある都市。東をジャムナ川、西を岩石の丘陵、南を点在する丘陵に囲まれ、東のヒンドスタン平原と西のパンジャーブ平原の2大穀倉地帯の中間に位置し、さらにガンジス川流域ながらインダス川との分水界にほど近い場所にあって、古くから交通の要衝となっていた。
○ニューデリー
オールドデリーの南にあり、1911年にイギリスの手で建設が始まった地域。これにより、首都機能はここに移った。設計はエドウィン・ラッチェンスによって行われ、円形のコンノートプレイスを旧市街も含めた町の中心に、新市街の業務中心の北端に位置するように置き、そこから南に二本の道を正三角形を描くように道を伸ばし、三角の東端であるインド門と西端である政府合同庁舎および大統領官邸、およびそれをつなぐ広い道であるラージパトゥ通りの描く三角形が街の主要部分となっている。議事堂、官庁などが集まっているインドの政治・経済・文化の中心。人口30万人。ラージパトゥ通り沿いには国立博物館がある。コンノートプレイスの北にはニューデリー駅があり、長距離列車が発着しデリーのターミナル駅となっている。ニューデリー駅前にはパハールガンジという安宿街が広がり、多くのバックパッカーが訪れる。ニューデリー東部にはラクシュミーナーラーヤン寺院がある。また、ニューデリー南西のチャーナキャプリー地区は大使館街となっており、日本大使館をはじめアメリカ、イギリス、ドイツ、中国、フランス、パキスタンなど各国の大使館が軒を連ねる。
なお、ニューデリーはかつても何もない荒野だったわけではなく、ムガル帝国初期には帝国の中枢がおかれていたこともある。インド門から東に少しいったところにあるプラーナ・キラー(オールド・フォート)は、ムガル第2代皇帝であるフマーユーンが改修し自らの居城としたところである。プラーナ・キラーから南にいくとフマーユーン廟があり、その向かいにはイスラムの聖者であるニザームッディーン・アウリアーを祀ったインド有数の聖者廟であるニザームッディーン廟がある。また、コンノートプレイスの少し南にあるジャンタル・マンタルは、ジャイプルのマハラジャであるジャイ・スィン2世が天文台として1724年に建設したものである。
○オールドデリー
ニューデリー建設時における本来のデリーであり、ムガル帝国の後期の首都だった地域である。オールドデリー中央部にあるインド最大のモスクであるジャーマー・マスジッドなど、歴史的建造物が多い。現在のデリー市中心域の北端にあたる。現在の行政域ではセントラル区の東部に当たる。東にジャムナ川が流れる。北東端にあるデリー城はレッド・フォートとも呼ばれ、ムガル第5代皇帝シャー・ジャハーンが建設し自らの居城とした城である。レッド・フォートからまっすぐ西へと延びる大通りはチャンドニー・チョウクと呼ばれ、オールド・デリーの目抜き通りとなっている。オールドデリーの北側にはデリー駅があり、ラージャスターン州方面への列車が発着している。オールドデリー南東端、ジャムナ川の近くにはガンディーの記念碑であるラージ・ガートがあり、参拝客が多い。その斜め向かいにはガンディー記念博物館がある。
○南部
ニューデリーのさらに南の地区は12世紀に建設された最も古いデリーであり、ラール・コート、シーリー、トゥグルカーバードといった古代の城塞都市の遺跡が点在する。ラール・コート内には、クトゥブ・ミナールやデリーの鉄柱といった文化遺産が残っている。また、特徴的な外観からロータス・テンプルと呼ばれるバハーイー教の寺院もこの地域にある。また、近年では大規模なショッピングセンターの建設が相次ぎ、コンノートプレイスに代わって商業集積ができつつある。フィーローズ・シャー・トゥグルクによって建設された人工貯水池であるハウズ・カース遺跡があり、その隣にあるハウズ・カース・ヴィレッジは1980年代以降開発が進み、画廊やブティックなどが並ぶスポットとなっている[4]。
○北部
オールド・デリーの北にあたるシヴィル・ラインズ地区は、デリー遷都後ニューデリー完成までの間に過渡的に首都機能を持った。現在ではデリー大学の事務局や北キャンパスなどがある。
○ジャムナ川東岸
かつてデリーの東境はジャムナ川であったが、デリーの拡大とともに東岸にも市街地が拡大し、現在ではデリー北東区とデリー東区の二つの区が設置されてデリー市域の一部となっている。2005年にはここに世界最大のヒンドゥー寺院であるアクシャルダム寺院が建設された。
参照元:ウィキペディア「
デリー」
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