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デリー

南アジアを代表する世界都市の1つ、インドの首都であるデリーの紹介。デリーの歴史、地理、気候、行政、経済、交通機関、観光地などを簡単にまとめています。

   

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デリーの気候

ケッペンの気候区分によると、温帯夏雨気候 (Cwa) に属する。3月上旬には、風の方向が北西から南西に変わる。3月から5月までは非常に暑い[5]が、この時期は降雨はほとんどなく、暑季と呼ばれてのちの雨季とは区別される。6月下旬になるとモンスーンが到着し、湿度が非常に高くなる[5] 。これから10月初頭までは雨季となり、デリーの年間降雨のかなりの部分がこの時期に集中する。11月初旬から2月にかけては乾季であり、穏やかな冬となる。冬といっても日中の平均最高気温は20度を超えており、他国からの観光客にとっては最もすごしやすいベストシーズンとされる。この時期、特に1月をピークに濃霧が発生しデリーを覆うことがある[6]。 デリーの年平均気温は25 ℃である。毎月の平均気温範囲は13℃から32℃の間である。デリーの最高気温記録は1931年7月に観測された45℃である[7][8]。デリーの年間平均降雨量は約714㎜であり、ほとんどが7月と8月のモンスーン時期に降る[9]。デリーにモンスーンがやってくるのは平均では6月29日である[10]。

参照元:ウィキペディア「デリー
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デリーの歴史 - インドの首都へ

ムガル帝国滅亡によってデリーは一地方都市となり、パンジャーブ州に所属することとなった。さらにインドにおけるムスリム文化の中心としての役割もなくなって一時衰退が進んだ。しかし、1867年にはじめてデリーに鉄道が開通したのを皮切りに、19世紀末には当時イギリスがインド全土に張り巡らせていた鉄道網の北インドにおける結節点となり、徐々に繁栄を取り戻していった。やがて当時の英領インドの首都だったコルカタが東に寄りすぎているうえに、ベンガル分割令から政治的に急進化する傾向が生まれたために首都の移転が計画され、ムガル帝国の旧都であったデリーに白羽の矢が立てられ、1911年には正式に首都が移されることが決定された。同年パンジャーブ州からデリーは切り離されて独立州となり、1915年と1925年、1926年に近隣諸県から数か村を編入して領域を拡大した[3]。1912年-1931年はイギリス領インド帝国の暫定的な首都だったが、1931年にニューデリーが正式に首都に制定された。1947年のインド独立時にも引き続いてデリーが首都とされたが、分離独立時の大混乱によってパキスタン領となったパンジャーブ州西部からヒンドゥー教徒やシク教徒の難民が大量に流入し、また独立の約半年後、1948年1月30日にニューデリー南部のビルラー財閥のデリー邸において滞在中だったマハトマ・ガンディーがヒンドゥー極右青年によって暗殺されるなどの混乱もあった。しかし独立以来、産業が急速に発達するとともに人口も急増した。現在、デリーはムンバイに次ぐインド第2の人口を持つ大都市となっている。

参照元:ウィキペディア「デリー

デリーの歴史 - ムガル帝国期

1526年、ムガル帝国を創設したバーブルはデリー南方にあるアーグラを首都とさだめたが、その息子フマーユーンはデリーに新しく都市を建設し、首都とした。1540年にフマーユーンを追って一時スール朝を開いたシェール・シャーもデリーに首都を置き、シェール・シャーの息子を倒してふたたびデリーを奪回したフマーユーンもまたデリーを都とし、プラーナー・キラーに本拠を置いた。しかし、フマーユーンの息子アクバルは、再び首都をアーグラへと移し、デリーは荒廃の一途をたどった。1648年にデリーは再度ムガル帝国の首都となると、アクバルの孫シャー・ジャハーンによって再建され、現在のデリーの基礎がきずかれた。現在オールド・デリーと呼ばれているデリー旧市街は、シャー・ジャハーンが築いたものであり、建設当時は「シャージャハーナーバード」(シャー・ジャハーンの町)と呼ばれていた。これ以後もムガルの首都はアーグラとデリーの間を行き来するが、6代皇帝アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の首都はデリーに固定された。これはムガル帝国の勢力が急速に縮小し、デリー近郊以外の支配を維持できなくなったことによる。 衰退したムガル帝国にデリーを守る力はなくなっており、以後デリーは幾度となく戦禍に見舞われることとなった。1739年、ペルシャのナーディル・シャーは有名な孔雀の玉座などの財宝を略奪し、支配下においた。1771年頃マラータ王国の勢力下にはいり、1803年にはマラーター戦争の結果イギリスが支配権を獲得する。1857年、インド大反乱によって一時的に占拠され、名目的な存在ではあるがこの町にて在位していたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世も反乱側に加担したが、同年に奪回され、バハードゥル・シャー2世がデリーからミャンマーに配流されることでムガル帝国は完全に滅亡した。

参照元:ウィキペディア「デリー

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