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デリー

南アジアを代表する世界都市の1つ、インドの首都であるデリーの紹介。デリーの歴史、地理、気候、行政、経済、交通機関、観光地などを簡単にまとめています。

   

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デリーの歴史 - ムガル帝国期

1526年、ムガル帝国を創設したバーブルはデリー南方にあるアーグラを首都とさだめたが、その息子フマーユーンはデリーに新しく都市を建設し、首都とした。1540年にフマーユーンを追って一時スール朝を開いたシェール・シャーもデリーに首都を置き、シェール・シャーの息子を倒してふたたびデリーを奪回したフマーユーンもまたデリーを都とし、プラーナー・キラーに本拠を置いた。しかし、フマーユーンの息子アクバルは、再び首都をアーグラへと移し、デリーは荒廃の一途をたどった。1648年にデリーは再度ムガル帝国の首都となると、アクバルの孫シャー・ジャハーンによって再建され、現在のデリーの基礎がきずかれた。現在オールド・デリーと呼ばれているデリー旧市街は、シャー・ジャハーンが築いたものであり、建設当時は「シャージャハーナーバード」(シャー・ジャハーンの町)と呼ばれていた。これ以後もムガルの首都はアーグラとデリーの間を行き来するが、6代皇帝アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の首都はデリーに固定された。これはムガル帝国の勢力が急速に縮小し、デリー近郊以外の支配を維持できなくなったことによる。 衰退したムガル帝国にデリーを守る力はなくなっており、以後デリーは幾度となく戦禍に見舞われることとなった。1739年、ペルシャのナーディル・シャーは有名な孔雀の玉座などの財宝を略奪し、支配下においた。1771年頃マラータ王国の勢力下にはいり、1803年にはマラーター戦争の結果イギリスが支配権を獲得する。1857年、インド大反乱によって一時的に占拠され、名目的な存在ではあるがこの町にて在位していたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世も反乱側に加担したが、同年に奪回され、バハードゥル・シャー2世がデリーからミャンマーに配流されることでムガル帝国は完全に滅亡した。

参照元:ウィキペディア「デリー
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