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デリー

南アジアを代表する世界都市の1つ、インドの首都であるデリーの紹介。デリーの歴史、地理、気候、行政、経済、交通機関、観光地などを簡単にまとめています。

   

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デリーの歴史 - 建設からデリー・スルタン朝

デリーは12世紀以降各王朝の首都がおかれてきたが、その位置は王朝によって異なる。おおまかに東をヤムナー川、西を岩石の丘陵地、南を点在する丘陵に囲まれた三角形の地域(デリー三角地)に、各王朝がそれぞれ新王都を建設したからである。現在のオールド・デリーはムガル帝国中期に建設された市街地である。 チャウハーン朝のプリトヴィーラージによってこの地に最初に都市がつくられたのは12世紀である。当時のデリーはデリー三角地の南西端にあたるラール・コートであった。デリーはプリトヴィーラージ・チャウハーン3世の時代に繁栄を迎えるも、1192年にはゴール朝の将軍であったクトゥブッディーン・アイバクの率いるイスラム教徒に征服され、プリトヴィーラージは死亡して、以後デリーは800年以上にわたるイスラム支配のもとにおかれることとなった。アイバクは征服したデリーを北インドにおける拠点と位置づけ、ラール・コートの跡にクトゥブ・ミナールの建設をおこなうなど市内の整備を行った。1206年にゴール朝のスルタンであるシハーブッディーン・ムハンマドが死去し、後継者争いによってゴール朝が解体に向かうとアイバクは奴隷王朝を建国して独立し、以後1290年までの奴隷王朝、1290年 - 1320年のハルジー朝、1320年-1414年のトゥグルク朝、1414年-1451年のサイイド朝、1451年-1526年のロディー朝と、1526年までの間デリーに首都を置いた5つの王朝が相次いで興亡を繰り返した。この5王朝は、総称してデリー・スルタン朝と呼ばれる。この時代、1398年にはティムール帝国のティムールによって征服、破壊されるなどしたものの、デリーには常に首都がおかれ、北インドの要衝として発展した。また、これらの王朝はすべてイスラム王朝であり、のちのムガル帝国期も含めて、デリーはインドにおけるムスリム文化の中心地として重きをなした。 奴隷王朝期には首都はラール・コートにおかれていたものの、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーは1303年にラール・コートの北東にあたるシーリーに新たに城塞都市を建設し、ここを根拠地とした。しかしハルジー朝は間もなく滅亡し、これを継いだトゥグルク朝のギヤースッディーン・トゥグルクは1321年、ラール・コートの東、シーリーの南東にトゥグルカーバードという新城塞都市を建設してここを根拠地とした。その息子のムハンマド・ビン・トゥグルクは1327年にラール・コートとシーリーをつなぐ大城塞都市の建設を企図し、ここをジャハーン・パナーと名づけたものの、経済の混乱によって計画は未完に終わった。ムハンマドの跡を継いだフィーローズ・シャー・トゥグルクは、それまで城塞都市がデリー三角地の南端に集中していたのに対し、三角地の北端に近い現在のオールドデリーからニューデリー付近に1354年に新城塞都市を築き、これをフィーローザーバードと称した。このように各地に点々と建設された各城塞都市が存在し、その間に農村や荒野、その他さまざまな建造物が点在するというのがデリー・スルタン朝時代のデリーの様相であった[2]。

参照元:ウィキペディア「デリー
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